第二次欧州大戦
−攻勢−

はじめに
ヒトラーの戦いは6年間にも及び、戦線は世界中に拡大しました。それを全部説明するのは大変なので主要な戦闘だけ解説します。力及ばず申し訳ありません…。地図も見にくいと思います。スキャナーがないもんで…。
電撃戦(BLITZKRIEG)
ドイツ第三帝国の陸軍元帥、ハインツ・グデーリアンの考案した全く新しい戦闘システム。戦車や自動車化された迅速な歩兵部隊を秘密裏に集結させ、敵軍の最も守りの薄い地点に集中的に攻め込み、一気に突破する。守りの堅い場所は戦闘を避け迂回する。航空機による爆撃や補給路遮断などを併せて行い、敵軍を各個に孤立させる。…この電撃戦は近代戦においても極めて重要な戦法で、当時からいかにドイツ軍が画期的で近代化された軍隊であったかが伺える。ポーランドもフランスもこの電撃戦に敗れた。
1939年9月1日、ドイツはポーランドへ殺到、宣戦布告はなかった。しかし、SSのハイドリヒと、シンドラーによる陰謀でポーランド兵がドイツ兵を殺害する事件が起き、ヒトラーはそれを口実に攻撃を開始した(殺されたドイツ兵はドイツ軍の軍服を着た強制収容所の囚人で、殺したポーランド兵はポーランド軍服を着たSS隊員だった)。
ドイツ軍は陸軍5個軍、60個師団。北方軍集団は北方から第4軍、東プロイセンから第3軍がワルシャワ、ブレスト・リトフスクに向かう。南方軍集団はドイツ東部とスロバキア方面から8、10、14軍が侵攻した。空軍は第1、4航空艦隊1450機(戦闘機550機、爆撃機880機)が出撃。ポーランド軍はドイツ軍の革命的な戦略思想に翻弄され、早くも7日にはワルシャワまで押しまくられる。
ヒトラーが再軍備宣言をしたのは4年前だった。ポーランド軍は30個師団と英仏同盟を保有し、ドイツ軍に負けるわけがないとタカを括っていた。第一次のころのように持久戦争になるだろうと、持ちこたえているうちに英仏がドイツの背後を突いてくれる、こう考えていた。しかし、ヒトラーは当時ソ連と組んで、秘密裏に再軍備宣言よりはるかに前から軍備を増強した軍隊で、一朝一夕に編成された素人集団などではなかった。おまけに装甲師団6個を主力に、新戦術電撃戦による快進撃を続けるドイツ軍に対し、ポーランド軍は軽装甲1個旅団しか持たず、唯一の機動兵力であるポーランド騎兵部隊はドイツ戦車群に抜刀突撃をかけ、壊滅した。
英仏はヒトラーの予想に反し、ドイツに宣戦を布告。しかし、実際に動き出す前に戦いの趨勢は決し、ポーランド軍は壊滅、ワルシャワはたった1か月で陥落した。
電撃戦(BLITZKRIEG) その2
英仏軍はマジノ要塞から出てこようとせず、ヒトラーは英仏と戦う気はないと講和を結ぼうとしたが、もはや乗ってくるわけがなかった。戦時中とは思えぬ静寂が続き、この期間は「まやかしの戦争」などと呼ばれた。ヒトラーは前の大戦のように膠着した塹壕戦になることを恐れ、自ら攻勢に出ることを決意する。ルクセンブルク、ベルギー、オランダを通るフランス攻撃の作戦立案を命令。1940年4月、紆余曲折を経てデンマークとノルウェーに侵攻、沈黙は破られた。語るにたる戦力を持たないデンマークは2日で降伏、ノルウェーもドイツ空挺部隊の前に抵抗も長くは続かなかった。
5月10日、遂にフランス侵攻作戦が開始された。北のB軍集団はオランダを、南のC軍集団はフランス国境の防衛、主力の中央に位置するA軍集団は7個装甲師団を投入し、アルデンヌ森林地帯へ殺到した。B軍集団は数日で、特殊部隊と空挺部隊によってオランダを連合軍から切り離した。A軍集団は2日でミューズ川を渡河し、10日でダンケルクにある英仏軍を包囲した。この際、ヒトラーは掃討戦をためらい、30万もの連合軍をイギリスへ撤退するのを許してしまう。
同年6月、戦いはフランス内陸部へと移る。フランスは既に敗北したことを悟り、一方的な戦いとなった。6月14日には、パリが陥落、フランスは降伏した。たった6週間の戦いだった…。
その時ヒトラーは既に対ソ戦に思いを張り巡らせていた。
ムッソリーニの無能
イタリアははじめこの大戦に不介入の立場を取っていたが、北欧と西欧を席捲したドイツ軍の快進撃を見て、「このままじゃオラの取り分がなくなっちまうズラ!」と焦り、1940年、壊滅寸前のフランスに宣戦を布告、野心を露にした。
ムッソリーニは地中海の覇権を握ろうとし、イタリア領リビア、アルバニアから20万の兵力を持って英領、スーダン、ソマリランド、ギリシャへ侵攻、しかし、世界最弱と言われるイタリア軍は圧倒的に兵力の劣るギリシャ軍、英軍に効率の悪い戦いを続け、1940年末には進撃停止を余儀なくされ、逆に連合軍に攻勢をかけられる側にまわるのである。
世界最弱のイタリア軍は、攻められても情けない戦いを続け、兵力で劣る相手に連戦連敗、挙句の果てにはヒトラーに泣きつき、援軍を要請する。イタリアが敗れればドイツは連合軍に背後をつかれることになる。ヒトラーはしぶしぶバルバロッサ作戦で投入する予定だった猛将エルヴィン・ロンメル将軍とその配下の装甲2個師団を増援として派遣する。
イタリアの惨敗、ユーゴスラビアの反独政府の樹立などでヒトラーはソ連侵攻を6月22日に延期し、4月6日ユーゴに侵攻、たった8日間で降伏させるとすぐにイタリアを追い払ったギリシャへ侵攻、ギリシャもドイツ装甲軍の前には全く歯が立たず、27日にはアテネが陥落。
一見、ドイツ軍の強さが素晴らしく見えるが、中立であったギリシャ他、北アフリカ諸国をイタリアのせいで敵にまわすことになり、戦わなくてもよい戦いをドイツ軍が尻拭いした形になり、かくして世界最弱のイタリアは対ソ戦のドイツのタイムテーブルを大きく狂わせ、ドイツを敗北に導くことになった。そしてドイツの敗北はすなわち日本の敗北にもつながったのである。イタリア野郎にあったら言いましょう。「次はテメエら抜きでやるからな!」と。
涙するには寒すぎた −零下50度の氷の戦場−
41年6月22日午前3時、ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」が開始された。作戦開始はバルカン作戦のため当初予定から遅れ、170個師団のドイツ軍は3つの軍集団に分かれ広大なソ連に侵攻した。武装SSのエリート師団も本格的に参加していた。南方軍集団がキエフに向かい、最大兵力の中央軍集団はミンスク、スモレンスクを陥しモスクワに向かう。北方軍集団はレニングラード(現サンクトペテルブルク)を目指して進む。不意を衝かれた赤軍は大混乱に陥る。
しかし、ドイツの2倍に当たる1億7千万人の国民を持ち人的資源に優るソ連は、訓練不足ながら続々と女、子供まで兵士として前線に投入し、イギリス、アメリカは兵器・戦略物資を援助する。ソ連の人海戦術にドイツは大苦戦を強いられる。なんせドイツ軍の弾の数だけ人間が突撃してくるのだから。武器を持たないものも多かった。ソ連軍は督戦隊という部隊が逃げる兵を裏切り者として一人残らず撃ち殺した。ドイツ軍は殺しても殺してもわいてくるソ連軍に恐怖した。
9月30日ヒトラーは将軍達の主張を聞きモスクワ侵攻作戦「タイフーン」を発動。中央軍集団はソ連軍を包囲殲滅しつつ、攻勢は幸先の良いスタートをきったが、10月後半には初雪、11月15日には零下20度に達し、進撃と補給は停滞してしまう。これに対し、ソ連はシベリアなどから増援をありったけ動員し守りを固めていた。冬までにはロシア全土を制圧できると踏んでいたドイツ軍は防寒着の用意がなく、凍えながら闘うことになる。ソ連軍は大反攻を開始し、ドイツ軍はヒトラーの死守命令で戦線を維持、100万の犠牲を出しながら戦争は2年目に突入した。ソ連軍のT-34主力戦車は冬季でも効率よく動作し、独軍を苦しめた。一方独軍は雨がふれば車両が動かず、雪がふれば凍傷で落伍兵が続出し、気候に苦しんだ。
砂漠の狐
1941年、世界最弱のイタリア軍の尻拭いのため2月、ロンメルが北アフリカに到着する。全部隊が輸送を完了する5月を待たず、捜索大隊と対戦車大隊だけで、進撃を開始、3月31日、装甲1個師団で奇襲をかけた。5月までドイツの進撃はない、と考えていた英軍は不意をつかれ大混乱、壊滅してしまう。その後も快進撃を続け、マルサ・ブレガ・ベンガジ・デルナを次々と奪回し、わずか十日の戦闘で英第二機甲師団は編成表から抹消された。ロンメルはなおも進撃を続け、トブルクへ至る。トブルクは港があり、補給品が次々運び込まれていた。オーストラリア第9師団に頑強に抵抗され、ロンメルはトブルクを包囲したままとりあえず諦め、エジプトへ進撃する。この伸びきった補給戦を分断しようと英軍は11月「クルセーダー作戦」を発動、その年の内にロンメル軍団はエル・アゲイラまで後退した。
もっとも、砂漠の狐ロンメル将軍がこれで終わるはずもなく、遅滞戦によって補給を回復しつつゆっくりと後退していたに過ぎなかった。42年の1月、予想もしない速さで反撃を開始、英軍を再びトブルクまで押し返した。そして6月トブルクは遂に陥落し、大量に物資を鹵獲、そのままエジプトへ進撃する。エジプトでは拮抗状態が続き、10月、新たに英軍の将軍に赴任したモンドゴメリー将軍は反撃を開始、圧倒的物量で枢軸を粉砕した。その2週間後、アフリカ軍団背後の仏領北アフリカに米軍が上陸、ドイツ軍は補給を確保すべくチュニジアに後退した。
1943年春、ロンメル将軍はチュニジアで英米連合軍を迎え撃つ、最後の決戦が始まった。ロンメル軍団は経験の浅い米第一機甲師団を軽く屠り、小康状態を作り出すことに成功する。ヒトラーはチュニジアに増援を派遣したが、連合軍との圧倒的な物量差を埋めることはできず、北アフリカで全滅する部隊を増やしただけだった。そんな中、猛将ロンメルはアフリカの暑さにやられ、治療のため本国へ帰還する。ロンメル不在の中アフリカ軍団は必死で戦ったが、殺っても殺ってもわいてくる連合軍の前に遂に降伏。1943年5月13日、2年半にわたる戦いは終わった。
涙するには寒すぎた −零下50度の氷の戦場− その2
1942年、4月ヒトラーは戦力を補強し南方軍集団を2つに分け、A軍集団は南方のドン川西で敵を撃破、コーカサスの石油を押さえ、B軍集団はボルガ河畔の工業都市スターリングラード(現ボルゴグラード)を占領する新たな作戦「青」を発動する。ドイツ軍は冬の打撃から立ち直り、再びソ連軍に損害を与えた。ソ連軍は当初、ドイツ軍がモスクワを攻略するものと判断し、兵力を温存するため戦略的な撤退を行った。B軍集団は開戦期を思わせる快進撃を見せた。A軍集団の進撃は当初は順調で、7月23日ロストフを占領したがコーカサス山岳地帯でソ連軍の頑強な抵抗にあい停滞した。ヒトラーはA軍集団の第1装甲軍を援護するためB軍集団の第4装甲軍を西に向かわせ、歩兵主力の第6軍を代わりにスターリングラード攻略に向かわせた。しかし進撃速度の遅い第6軍が8月にスターリングラードに到達した時にはソ連軍の防備は強化されてしまっていた。ヒトラーは突然スターリングラードを急いで占領せよと命令、いったん西に向かわせた第4装甲軍をまたスターリングラードに呼び戻した。
ソ連軍はボルガ河を背にした文字どおり「背水の陣」で不利な態勢ながらスターリンの名を冠したこの都市を死守する構えである。ヒトラーにしてみればこの都市の名前自体が戦略上の目的よりも重要であった。こうして副次的な作戦であったスターリングラード攻略は両軍の総力を挙げた戦いとなる。
9月ドイツ軍は空軍の猛爆撃の後、市内に突入し激しい市街戦が展開される、瓦礫の中で両軍は時には白兵戦を交えながら1区画の奪取をめぐり血を流した。こういった市街地の戦闘ではドイツ軍の戦車は機動力を生かせない。11月中旬には市内のほとんどをドイツ軍が制圧していた。しかしソ連軍は反攻を開始し、脆弱な側面を徹底的に攻撃、12月には第6軍は包囲されてしまう。零下40度の中では塹壕を掘ることもできず、木材は戦闘で燃え尽き、寒気とソ連軍の砲火を防ぐものはテントしかなかった。ヒトラーはあくまで降伏を認めず死守命令を乱発。優秀なドイツ軍人を多数死なせた。包囲後の戦闘でドイツ軍16万が戦死し9万1千人(将軍24人)が捕虜になった。ヒトラーの2つの目標、スターリングラードも南部の油田も手に入らなかった。捕虜になった約9万人のうち生きて帰って来たのはわずか6000人だった。

↑ドイツ軍に襲われ廃墟と化した村 この記憶を忘れぬために廃墟のまま維持されている ここまでするとは




ドイツ軍は占領各地で徹底した殺戮と破壊を繰り広げた 犠牲者の数は数千万人といわれる